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06/9/12   English  Korean
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前夜ブックガイド
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●前夜ブックガイドでは、『前夜』書評チームが共同で選書を行ない、いま読むべき本を提示します。

●このページでは、季刊『前夜』本誌に毎号掲載されているブックガイドのコーナーを紹介しています。(ホームページに未掲載分および映像ガイドは本誌をお読み下さい。)また、当サイトに掲載された文章の無断引用はお断りします。

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 第1回 文化と抵抗

 二〇〇二年に刊行された『〈コンパッション〉(共感共苦)は可能か?』(影書房)には、「〈コンパッション〉を育むブックガイド」が収められている。これは、「つくる会」教科書の歴史観・反人権意識に抗するために、議論を通した共同作業のなかから生まれた。この時の問題意識と経験を引き継ぎ、本欄では、『前夜』書評チームが毎回テーマを定め、今読むべき本を、その理由とともに提示していく。書評チームは、二〇代、三〇代のメンバーを中心として構成され、定期的に学習会を持ちながら、共同で選書する作業をおこなっている。候補にあがった本を手分けして複数で読み、その上で討議を通して選書をおこなうという過程自体を重視している。
 
今号の選書のテーマは、特集と同じ〈文化と抵抗〉とした。〈文化〉を人間の生き方・あり方そのものだと考え、その意味での〈文化〉が〈抵抗〉と分かちがたく結びついていることを、いきいきとした形で描きだしている本を選んだ。自伝的な作品や評伝を中心に、ある個人の姿が明確に浮かび上がってくるということが共通点である。

長谷川テル作品集 宮本正男 編 亜紀書房(1979)
パブロ・ネルーダ――マチュ・ピチュの高み 矢内原伊作 訳 竹久夢二 画 みすず書房(1987)
バルトーク 民謡を「発見」した辺境の作曲家 伊藤信宏 著 中央公論社(1997)
完訳 マルコムX自伝 上下巻 濱本武雄 訳 中央公論社(2002)
わが異端の昭和史 上下巻 石堂清倫 著 平凡社(2001)
反体制の芸術――限界状況と制作のあいだで 坂崎乙郎 中央公論社(1969)
歴史家たち E・P・トムスン/N・Z・デイヴィス/C・ギンズブルクほか 著 近藤和彦/野村達郎編 訳 名古屋大学出版会(1990)


長谷川テル作品集
宮本正男 編
一九七九年 亜紀書房

 「お望みならば、私を売国奴と呼んでくださってもけっこうです。決しておそれません」――日本による侵略戦争が全面的に展開されていた中国のただなかにあって、反戦と民族解放運動に取り組んだ日本人女性、長谷川テル。
 
日本を脱出し、運動を開始しようとする中でのさまざまな困難を描いた『戦う中国で』には、次のような言葉がある。「私は、そうだ、抽象的世界人ではないのだ。したがって、中国にいる日本人として、私は特別な義務を持っている」。
 
この認識に基づいたテルの〈抵抗〉のありかたは、特筆すべきものだ。エスペラント(国際語)という〈普遍〉を志向する運動に打ち込みながらも、侵略国側の人間としての「特別な義務」を自覚し、被侵略国における闘争に参加したのである。だからこそ彼女は、ラジオを通して日本軍兵士に反戦・反軍放送を行なうなど、自分もその一員である「日本人民」に対して呼びかけた。
 「中国人民」との〈連帯〉がいかに困難であるのかということを思い知らされる事態に幾度もぶつかりながらも、自己自身が行なわなければならないと考える〈抵抗〉を徹底することによって、新たな〈連帯〉の可能性をその都度きり開いていくテルの姿を、この書に収められた作品から読み取ることができるだろう。本書は現在品切れだが、『日本平和論大系17』(日本図書センター)に本作品集は所収されている。(高和政)


パブロ・ネルーダ マチュ・ピチュの高み
矢内原伊作 訳 竹久野生 画
一九八七年 みすず書房

 チリの詩人パブロ・ネルーダの「絶唱」をおさめたこの詩画集には、ネルーダ本人の朗読テープが添えられている。ネルーダは生前、チリ全土をまわって「坑夫や農民や船員たちに語りかけ、詩を朗読」したという(大島博光『愛と革命の詩人ネルーダ』)。その詩はまさに、民衆への呼びかけとしてあった。
 「死」の思いにとらわれていた「わたし」がインカ帝国の遺跡マチュピチュで見たものは、帝国の「地の底」に沈んでいった「奴隷」や労働者たちの姿であった。「わたし」は彼らに呼びかける。「登れ わたしとともに生まれよ 兄弟よ。」新たに「生まれる」のは〈死者〉だけではない。「わたし」自身も〈死者〉に促され、新たに「生まれる」存在なのだ。「わたし」の「生」そして「言葉」は、〈死者〉の「死んだ口を通して語る」ことによって、いきいきと躍動しはじめる。「語れわたしの言葉でわたしの血で。」
 ネルーダの言葉とは、重層的な「時」の認識から発せられたものであり、それを受けとる私たちも、自ずとその〈歴史〉に身を置くことになる。チリでは、ネルーダの朗読はレコードとなり、メロディに乗せて歌われている。民衆の中で「生まれ」つづける言葉に、私たちは触れることができる。本書は稀少本であり、『ネルーダ マチュ・ピチュ山頂』(田村さと子訳、鳳書房)が入手しやすく、抄訳では『パブロ・ネルーダ詩集』(思潮社)がある。(小野祥子)


バルトーク 民謡を「発見」した辺境の作曲家
伊藤信宏 著
中公新書 一九九七年

 作曲家として知られるバルトークに、「民俗音楽学者」としての側面から光を当てた評伝。世紀転換期のハンガリーは、「文化的に独立の機が熟していない小国」とみなされる一方、西欧の「辺境」というステロタイプの下に「評価」を受けるという特殊な位置にあった。
 ハンガリーに生まれ育ったバルトークは、ハンガリー音楽が単なる「音楽の特産品」(シェーンベルク)ではなく、それ自体価値あるものであることを証明しようと、「ハンガリー民謡の収集」という道を選択する。本書は、ハンガリー中を踏破しながら徹底的にハンガリー民謡を調査、研究、分類するバルトークの執念の姿を克明に描き出している。
 
バルトークはそれに留まらず、膨大な収集の結果から「ハンガリー民謡の本質」を科学的に明らかにし、「ハンガリー的なるもの」を具体的に抽出しようと試みる。こうした試みは一見本質主義的である。だがバルトークは「ハンガリー的なるもの」を徹底的に突きつめていくなかで、安易な国粋主義への抵抗の道を開く。本書はその過程をバルトークの民謡「分類」の分析を通じて鮮やかに描き出す。
 バルトークは結果的にハンガリー国粋主義とも距離をとることになるが、そうしたときの抵抗の拠点は徹底的な調査の末に彼が到達した「文化」であった。本書が描き出した「民俗音楽学者バルトーク」は、「文化と抵抗」のひとつの姿であるといえるだろう。
(鄭栄桓)


完訳 マルコムX自伝 上下巻
濱本武雄 訳
中公文庫 二〇〇二年

 米国の黒人運動指導者マルコムXの自伝。自分がおかれたそれぞれの状況において、徹底して考え抜くことで、自己自身をも変革の対象としていく、思考のダイナミズムに溢れていることが大きな特徴である。
 貧しい黒人家庭に生まれたマルコムは、様々な犯罪に手を染め、「アメリカの白人社会のどん底」で生きることになる。刑務所内でイライジャ・ムハマドの教えに出会った彼は、辞書の単語を一つずつノートに写すことから勉強を始め、刑務所の図書館の本を読みあさった。前半部のハスラー(チンピラ)時代の記述も、一九四〇年頃の黒人文化を生き生きと描写していて面白いが、「どん底」の状態から一歩一歩学んで自らのアイデンティティを獲得していく過程は感動的で、〈学ぶ〉ことへの励ましを与えてくれる。
 出所してからの彼は黒人運動に飛び込み、「マルコムX」として短く激しい生涯を駆け抜けた。「X」とは、永久に失われてしまった、アフリカにおける自分の家族の名前の象徴である。メッカに巡礼し、ネイション・オブ・イスラム教団を離れ、国際的な黒人運動を視野に入れた行動を始めた矢先、凶弾に倒れた。その人生からは、それまでの自分の思考をおそれることなく訂正することの重要性を教えられる。その際、過去の自分に対して、嘘をつかずに真摯に向き合うことが、〈転向〉と〈抵抗〉との大きな分岐点となるのだ。(宗司光治)


わが異端の昭和史 上下巻
石堂清倫 著
平凡社ライブラリー 二〇〇一年

 一九〇四年に生まれ、二〇〇一年に亡くなるという、まさに二〇世紀とともにあった知識人石堂清倫の自伝。東大新人会への入会から、三・一五事件での検挙・入獄、組織運動から離れるという形での「転向」を経て、満鉄調査部事件で再び検挙・投獄され、敗戦の後、大連で引き揚げ活動に関わる。日本に戻ってからは、日本共産党に復党し、ML研究所に属し、国民文庫社の責任者としても活動するが、一九六一年に離党、その後は在野の研究者としてグラムシ研究に従事する。
 自らも「異端」と名指すその生涯が、凄惨な獄中体験も含め、きわめて淡々とした筆致で書かれていることが本書の特徴だ。
 また筆者は、運動の中で出会った多くの人々について述べているが、それがそのまますぐれた「転向」論になっていることにも注目したい。「ぎりぎりに追いつめられたときの人間の評価は、その人がどんなイズムを奉じているかによってきまるのでなく、その人がどう行動するかによってきまる」。リベラリスト河合栄治郎への高い評価も、この人間観に由来する。
 戦前・戦後を問わず、保身のために時流にあわせて論理を捏造する人間があまりにも多い中で、筆者の生き方は誠実であろうとする〈知性〉によって、貫かれている。そのような〈知性〉こそが、〈抵抗〉のために必要不可欠であることを実感させられる。(高和政)


反体制の芸術 限界状況と制作のあいだで
坂崎乙郎 著
中央公論社 一九六九年

 ドイツの農民戦争、ナポレオン戦争、あるいは第二次世界大戦と、さまざまな「限界状況」の中にあって、それでも表現という抵抗手段を捨てようとしなかった芸術家たちがいる。著者は「反体制の芸術家」たちが、それぞれの時代背景のなかで、どのような理念をいだき、これをどのように表現したか、ということを、つまり、「今日的な人間の、根源的な魂の問題」を、それらの表現のうちに見ようとする。・・・・・・(後略)


歴史家たち
E・P・トムスン/N・Z・デイヴィス/C・ギンズブルグほか 著
近藤和彦/野村達朗編 訳
名古屋大学出版会 一九九〇年

 本書は『ラディカル・ヒストリ・リヴュー』による一四人の「歴史家たち」へのインタビュー集である。一四人は専門とする領域も時代も多様であり、なかには、いわゆる「歴史学者」ではない人もいる。だが一四人に共通している姿勢は、C・L・R・ジェイムズが「歴史の出発点は人民大衆で、人民大衆こそ非常に重要なのです」と率直に表明しているように、民衆の自律性への関心であり、常に支配や操作の客体としてのみ民衆を位置づける既存の研究への抵抗である。
 
そして本書の優れている点、とりわけインタビュアーの優れている点は、こうした対象への姿勢を、「歴史家たち」の「歴史的」体験を引き出しつつ語らせている点である。本書を読むなかでモーシェ・レヴィンにとってのソ連での製鉄労働者としての生活が、彼のロシア農民の研究にいかに結びついているか、またストートン・リンドの労働弁護士としての生活が、彼の労働運動研究の延長線上にあることを理解できる。
 「威張って自信をもって、世の中に何もコミットするものがないから真の歴史家だなどと考えている人たち」(E・P・トムスン)ばかりが横行するなかで、決して色あせない「理論と実践」という問題、そして民衆と共に歴史を作り共有するという課題に本気で取組む「歴史家たち」の姿から学ぶものは多い。
(鄭栄桓)